4.鳥山明『ドラゴンボール』(1988-1994)
文:おばらこうた(vo)

 いまさらドラゴンボールの何を語れというのか。文句無しに、世界で一等愉快な奇跡である。この世はでっかい宝島に決まってる。
それを、なんだ、こんなロックバンドのホームページでさあ。そんなことやってねえで練習しろよ、バカが。
 なんだけれども、先日、私の後輩の一人が、ペットボトルのおまけでついてきた、ヤジロベーのフィギュアを見て、「これ何ですか?」と言い放った。 そんなバカな。
じゃあ、ヤジロベーとクリリンは同じ声の人であるのだぞ、と教えてあげたら、「クリリンって何でしたっけ?」だって。
 彼は現在19歳、俺と4つくらい歳の差があるんだけど、ドラゴンボールをほとんど読んだことがないそうだ。アニメで「Z」と「GT」を見たことがあるくらいなのだそうだ。他にも、現在17歳のとある女子に尋ねてみたところ、やはりヤジロベーの名は彼女の可憐な唇から放たれることはなかった。
 だから、書こうと思った。これは使命なのです。ドラゴンボールについて、おまえのホームページで無知な十代に教えてたもれ、という使命を神から授かったので、書きますので、俺がサメるようなツッコミはやめてください。

 まず、ドラゴンボールを漫画で読んだことがない人は損をしている。アニメもすごくいいけれど、俺は、鳥山明の絵がとてもいいと思うので、その点、アニメだけでは惜しいと思う。だってアニメの絵は明らかに手抜きじゃん。線の感じとかさ。他の人が書いてるからね。いや、漫画もか。知らんけれど、俺は少年時代、毎週毎週ドラゴンボールの表紙を見るだけで興奮していた。巻頭カラーのときなんかは、もうたまらんのだ。鳥山の絵が好きだ、という人には、ドクタースランプもお薦めだ。漫画で読んでほしい。
  そして何より、アニメは漫画の<スピード>を超えられないのだ。ここでいう<スピード>とは、空間と時間の流れのことであり、ストーリーの進み具合ではない(実際、ドラゴンボールでは何度かアニメが漫画の連載に追いつきそうになったことがある。そういう時は、ヤムチャが野球選手になったり、悟空の親父が出てきたり、などの漫画にないショートストーリーを入れてアニメ側の進行を遅らせた。)。空間と時間の流れ、っつってもなんか難しいかもしれないが、ようするに、漫画で読んでいる時の方が悟空は素早く動いている感じがする、ということだ。漫画は一瞬一瞬を切ってつないでいくから、その一瞬と一瞬の間は読者の頭の中で勝手に展開される。俺は悟空は瞬く間に相手の目の前にせまるくらい速いと思っていた。それが、アニメは全部つなげて見せなくてはいけないので、悟空はちゃんと右足、左足を使って走って相手に向かっていく。それが遅く感じるのだ。これはスラムダンクもそうだった。漫画ではもっと、スパスパスパッと試合が進んでズバズバズバッとゴールが決まるような感じだったのに、アニメの花道達はどうにも遅い。足が遅い。だから、スピード感を売り物にした漫画はアニメにしちゃいけません。目では追いつけないのだよ本当は。アニメのスピードじゃ遅いのだよ、秋葉原のバンダナ諸君。ジージャン諸君。どうだ、俺のほうがアニメのことわかってるだろ。

 さて、では漫画をこれから買おうかな、といまの説明で思ったキッズ達は、ふと大変なことに気付く。長いんだ。ジャンプコミックスで34巻まである。いま出ている赤い表紙のやつも同じくらいある。これ全部買うと金かかるし、本棚埋めるし。だから俺が教えてあげよう、漫画は17巻まで買えばよし。とりあえず。ここまでが、アニメでいうと「ドラゴンボール」だったのであり、そのあと、悟飯ちゃんが出てくるところから「Z」がつく。悟飯ちゃんがセックスを省略して出てきて、物語が宇宙規模になって、もうこっからはキリがない。というか、テーマが移行してしまうのです。
 

  17巻までのドラゴンボールの主題は、一応、ドラゴンボールという7つの玉を集めると何でも願いを叶えてくれる、というところに置かれている。この7つの玉をめぐって、敵と味方に、良い者と悪い者に分かれる構造になっている。自分たちの力だけではどうしようもないことがあるから、神龍になんとかしてもらおう、という堕落した魂を宿した奴が次々に登場するのは、分かりやすくて納得がいくじゃないか。俺だってほしいもん。その玉。
しかしその後の、宇宙規模の話の主題は、いつのまにか「悟空がどれだけ強くなるか」にすり替わっているのだ。これはちょっとどうなのか。
 
  悟空は無垢な存在だった。無垢だから、ドラゴンボールに願いを叶えてもらって有名になりたいとか、金持ちになりたいとか、レコード会社と契約したいとか思わない。ただ、4つ星が入った玉がじいさんの形見だから大切なのだ。そういう無垢な子供が主人公で、私利私欲に溺れた大人が悪いやつ、というのは当たり前だ。みんな悟空を応援する。
 それが、物語後半ではドラゴンボールはもはや死んだ奴を蘇らせるアイテムに過ぎないものになっている。俺は、死んだ奴が蘇る、というこの発想を当時連載していた漫画のほとんどに入れたジャンプの編集者たちは、狂っていたのだと思っている。死んだ奴が蘇るんだったら、人は何のために戦うのだろうか。戦いは、何かを守るためじゃないと許されないのではないだろうか。一番守らなきゃいけないのは人の命だ。それを無限にして、じゃあ悟空は一体、何のために戦っていたのか。

それは、欲だ。どーん!!!悟空はいつのまにか、欲張りさんになっていた。もっと強くなりてえ、という、欲。
 

 俺はやっぱりこの辺は腑に落ちない。結局、一回ドラゴンボールで生き返ったことのある奴は次死んだらホントに復活はなし、というルールを強引に作って、なんとか人の命という最後の防衛線をつないで物語は進むけど、なんだかんだでクリリンとチャオズは2回ずつ蘇る。もう、ルールがなくなってしまうのだ。なんでもありの世界。 さらには、千年に一人のスーパーサイヤ人は結果的に5,6人並んでいるし、あれだけ苦労して倒したフリーザはサイボーグ化してあっさり復活するし、それをトランクスが剣で一発だべ。もう「強さ」が何だかわからなくなってくる。
 この、強さの探求のみに物語の主題が移行した瞬間はいつだったのか。俺は、マジュニアが出てきた天下一武道会だったと考えている。これが、17巻なのだ。あの決勝戦で、悟空はマジュニアにトドメをささずに、仙豆を与えて逃がしてしまうのだ。その時の悟空の言葉「もっともっと修行して強くなれ・・・」これがこの物語のその後を示している。さらにその2ページ後、亀仙人の「もうちっとだけ続くんじゃ」は20世紀の大嘘として語り継がれていくだろう。とにかく、この主題の移行は、物語を終わらせない、一つの武器になった。

 そして、まあこういう難しい分析以上にわかりやすく、鳥山明本人のドラゴンボールという漫画への愛の終焉を示しているのが、25巻の背表紙。ヤジロベー2回目の登場。当時、俺や友人達の間では、これは大事件であった。「実はヤジロベーには双子の兄がいて・・・」などの憶測が飛び交った。しかしこれは単純な、鳥山によるミスだったことがジャンプ誌上で発覚、 俺は正直興ざめした。よりによってヤジロベーとは。ようするに、もうこの辺で正直鳥山本人にもキャラクターが多すぎて把握しきれていなかったということだ。漫画が失敗する要因としてよくあるのが、このキャラクタの増やしすぎというパターン。主人公の存在が希薄になり、読者もついていけなくなる。俺がジャンプを買わなくなったのは、大半の漫画がキャラクタを増やしすぎてカオス状態に突入したからだった。人は増えるのに、誰も死なないので減りもしない。いくら子供でも、これには大人のずるさを読み取らせてもらった。
 その他にもよく見てみると、単行本の背表紙からドラゴンボールをどこで終わらせようかと鳥山が悩んでいた様子が伺える。最初はたぶん7巻までで終わるつもりだったのだろう。龍のしっぽと七つ目のボールが描かれている。内容的にはレッドリボン軍編の途中だが、ということはレッドリボン軍は連載開始時にはなかった設定か。つまりピラフ編だけで7巻までやって終わる予定だったのか。
その後はやっぱり16巻だ。ブルマのバイクのところで絵がちょうど切れている。本当はこの16巻に、17巻の前半部分である天下一武道会の結末をくっつけて終わるはずだったに違いない。 それが17巻でサイヤ人編に突入し、「もうちっとだけ」続くことになる。
そして20巻。マジュニア(ピッコロ2世)の足でちょうど終わりそうな感じ。20巻の最後のページを見てみると、ベジータの「このおれさまがひきかえすことになるとは・・・」というセリフで終わっている。と、いうことは、亀仙人の「もうちっと」は、「ベジータを倒すところまで」という意図だったことが想像できる。つまり、悟空にも子供ができました、そして悟空が実は宇宙人だったという悟空のルーツがわかり、しっぽのことなども説明がつく、そして悟空が死んじゃう、でも生き返って宇宙から地球を守って終わり、ヤムチャさんたちは死んだまま、というはずだったのだけれど、ベジータを逃がして話を続けることにしちゃったと。ヤムチャさんも蘇らせてみんな揃って終わりましょうや、ということに、なったんだろうね。じゃあ、ここかもしれない。20巻。ここで終われば、まあOKだったかもしれない。亀仙人にも嘘をつかせずに終われたかもしれない。ヤジロベーも2回出てこなくてすんだ。ああそうだ。

ということで、大目に見て、ドラゴンボールは20巻まで。いや、ホントは17巻までか。

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